気象庁長官 関田 康雄 様
気象庁による生物季節観測の変更の見直しを求める要望書
気象庁は、1953年以来、全国の気象官署で統一した基準により、植物の開花日、発芽日、紅葉日等について34種目41現象を対象にした植物季節観測を、鳥や昆虫等の初鳴日や初見日について23種目24現象を対象にした動物季節観測を、それぞれ実施してきました。観測された結果は、わたしたちの生活情報のひとつとして利用され、さらに季節の遅れ進みや、気候の違いなど総合的な気象状況の推移を把握することにも用いられ、近年では気候変動が生物や生態系に及ぼす影響の評価にも活用されてきました。しかし、令和3年1月より、6種目9現象の植物のみを対象とした生物季節観測に変更することが、令和2年11月10日付けで気象庁より発表されました[1]。これは、実に67年間にわたり行われてきた、日本の身近な自然を代表する動植物を対象とした観測の多くが中止されることを意味します。しかしながら、観測が中止される観測項目の中には、55か所の気象台において1953年より観察されてきたモンシロチョウの初見日のように、長期間・広範囲にわたり観測されてきた生物種を対象とした現象も少なくありません。このような種目を対象とした生物季節観測の中止は、学術的にも社会的にも大きな損失となることが予想されます。わたしたちは、気象庁が行われてきた生物季節観測について、これまでの結果だけでなく将来にわたる重要性を鑑み、以下の要望をいたします。
- これまでの観測発表回数[2]が300回を超えている動物季節観測6種目6現象[3]については、わたしたちの生活情報や文化としての価値、気候変動影響の評価等の学術的・社会的な価値が極めて高いため[4] [5]、令和3年1月以降も継続して観測する項目に戻す等の見直しを行うこと。
- 動物季節観測については一律に中止するのではなく、地域により対象を絞って継続的に観測することに加え、対象を見つけることが困難となった気象台でのみ観測を中止する等の再考を行うこと。
- 観測項目変更の見直しの中で、対象を見つけることが特に困難になってきている気象台においては、例えば地域における市民参加型観測体制の導入により観測継続の可能性について検討を行うこと。
近年では気候変動が生物の生存や生態系の成立を脅かす大きな問題になってきています[6] [7] 。その気温上昇による影響は広く生物界全般に拡がりつつあり、生物季節や生息域、生物群集の変化を引き起こしていると考えられています。特に、気象庁がこれまで観測してきた生物季節、植物の開花・発芽・紅葉・落葉、動物の出現・鳴き始め等が、ここ30年の気候変動によりすでに大きく変化していることが知られています。例えば、気象庁がこれまで観測してきた生物季節データを使った様々な解析から、開花の早まりや結実の遅れ、開花期間の延長、動物の出現の遅れ等が報告されています[8] [9] [10] [11] [12] [13] [14]。これらの成果の一部は、気候変動に関する政府間パネル第5次評価報告書に引用されるなど、気候変動に関する政府間パネルでの目標設定にも大きく寄与しています。
生物や生態系の長期観察は、多くの生態学、保全生物学的なデータを提供し、特に気候変動に関する多くの知見をもたらし、それによって温室効果ガス排出削減の枠組みや生物多様性国家戦略(愛知目標)などの、国際的な行政指針の策定に多大な貢献をしてきました。日本の生物季節観測データは近年でも、地球規模での生物季節の解析にも用いられ[15]、その価値は国際的にも評価されています。気象庁の生物季節観測は67年にわたり全国統一的な手法で観測が行われており、これらのように大変貴重な長期観察データとして、日本はもとより、海外でも利用されております。今後はさらに気候変動が進む時代になると予想され、その生物季節観測の重要性が増すものと考えられます。
わたしたちは、生物季節観測の事業について、継続することによる多くの科学的知見の蓄積とそれによる政策立案の可能性について十分検討されないまま、多数の項目の中止が検討されている状況を深く憂慮しています。中でも、動物・昆虫の観測がすべて撤廃されることは極めて遺憾で、一般に植物と動物の両方のデータがそろって初めて理解できる現象が少なからず見られます。また、全国各地にある気象台から約70年間集積されたデータの価値は、今後さらに継続的にデータを得ることで、環境変動や季節変動を客観的に捉える上での二度と得られない科学的根拠に基づいた重要な基礎データとなり、将来予測にも必ずや役立てられるものになると確信しています。つまり、これまで長期に渡って継続されてきた、かけがえのない生物調査が廃止されてしまうことは、世界的にも多大な損失に繋がるのです。
わたしたちは生物季節観測の変更に係る見直しについて、必要な情報提供や種目選別作業等に関する協力・支援を惜しみません。また、これらの生物季節観測を継続するための手法として、市民参加型の観測体制の導入等[16]についても、専門家集団として協力をさせて頂く用意がございますことを最後に申し添えます。
以上
2020年12月23日
日本生態学会 会長 湯本 貴和
日本昆虫学会 会長 大原 昌宏
日本霊長類学会 会長 中川 尚史
日本鱗翅学会 会長 八木 孝司
日本生物地理学会 会長 森中 定治
日本動物分類学会 会長 塚越 哲
日本プランクトン学会 会長 津田 敦
植生学会 会長 上條 隆志
⽇本魚類学会 会長 篠原 現人
日本植物分類学会 会長 伊藤 元己
日本植物学会 会長 三村 徹郎
日本花粉学会 会長 岸川 禮子
日本サンゴ礁学会 会長 山野 博哉
日本蘚苔類学会 会長 嶋村 正樹
日本景観生態学会 会長 鎌田 磨人
日本鳥学会 会長 尾崎 清明
日本哺乳類学会 会長 押田 龍夫
種生物学会 会長 陶山 佳久
日本ベントス学会 会長 大越 和加
日本環境教育学会 会長 朝岡 幸彦
日本蝶類学会 会長 菱川 法之
日本蜘蛛学会 会長 田中 幸一
日本地理学会 会長 松原 宏
日本動物園水族館教育研究会 会長 髙橋 宏之
日本菌学会 会長 田中 千尋
日本DNA多型学会 会長 猿渡 敏郎
日本動物学会 会長 稲葉 一男
[1] 気象庁記者発表 https://www.jma.go.jp/jma/press/2011/10a/20201110oshirase.pdf
[2] 生物季節観測データベース http://agora.ex.nii.ac.jp/cps/weather/season/#type
[3] モンシロチョウの初見日、ウグイスの初鳴日、アブラゼミの初鳴日、ツバメの初見日、ヒバリの初鳴日、シオカラトンボの初見日
[4] Ellwood et al. (2012) Disentangling the paradox of insect phenology: are temporal trends reflecting the response to warming? Oecologia, 168: 1161–1171.
[5] 出口ら(2015)日本に飛来する夏鳥の渡りおよび繁殖時期の長期変化.日本鳥学会誌64: 39–51.
[6] IPPC (2014) AR5 Synthesis Report: Climate Change 2014(国連気候変動に関する政府間パネル第5次評価報告書)https://www.ipcc.ch/report/ar5/syr/
[7] IPBES (2018) Global Assessment Report on Biodiversity and Ecosystem Services(生物多様性及び生態系サービスに関する地球規模評価報告書)https://ipbes.net/global-assessment
[8] Matsumoto et al. (2003) Climate change and extension of the Ginkgo biloba L. growing season in Japan. Global Change Biology, 9: 1634-1642.
[9] Doi (2007) Winter flowering phenology of Japanese apricot Prunus mume reflects climate change across Japan. Climate Research, 34: 99-104.
[10] Doi and Takahashi (2008) Latitudinal patterns in phenological responses of leaf colouring and leaf fall to climate change in Japan. Global Ecology and Biogeography, 17: 556-561.
[11] Primack et al. (2009) Spatial and interspecific variability in phenological responses to warming temperatures. Biological Conservation, 142: 2569-2577.
[12] Doi et al. (2010) Genetic diversity increases regional variations in phenological responses to climate change. Global Change Biology, 16: 373-379.
[13] 土居・高橋 (2010) マクロスケールからみる温暖化の植物フェノロジーへの影響: 気象庁・生物季節データセットによる解析. 日本生態学会誌, 60: 241-247.
[14] Doi (2012) Response of the Morus bombycis growing season to temperature and its latitudinal pattern in Japan. International Journal of Biometeorology, 56: 895-902.
[15] Radchuk et al. (2019) Adaptive responses of animals to climate change are most likely insufficient. Nature Communications, 10: 3109.
[16] 国内NPO、NGOや、いきものログ・iNaturalistなどのオンラインコミュニティなど、既存の市⺠参加型生物記録プロジェクトとの連携を検討する。気象庁によるこれまでの生物季節観測手法と大きく異なる場合は補正が必要である。